見えない

ルーマニア」だか「ポーランド」の設定の場所にトランジットで立ち寄る夢をみる。カラフルで幾何学的なモダンながらのファッションの女性たちが宮殿の中にあるような装飾的な調度の広間で会議をしている。ラジオやステレオセットの前に女優の角替さんに似た女性が躍り出てくる。私はこの人に会おうとしている。フェミニストウーマンリブの進化の果てで民主的な話し合いのもと民主的な事柄がすぐに導き出されているという世界。

Tさんと貧乏性について話す。クリエーターも働き方改革して余暇を使って消費者になれ、それがクリエーターの生きる道だという無私の経済サイクルに入れと促されている社会だねえと。

リリカルをいくらでも消費できる人たちがいるようだが、感動脳(能)やリリカル消費脳が退化している人や拒否している人、距離をおいている人がいる。今村夏子さんはそういう人の文学を実践しているということなのか。

とにかくシステムの中でいわゆる「生きづらさ」を感じるサイクル。

戦犯の孫と戦犯の子から戦没者慰霊の祭司へと転回した人の子が相対する夏。

 

 

またちょっと

またしばらくちょっとブログを書けず。前回が3月24日? 年度末の納品やら請求書の出し直し、出し直し、出し直し、請求書発行依頼、発行依頼、発行依頼。見積書作成、説教、説教、説教。無意味な書き起し、書き起し、書き起し。権利元一覧作成、権利元一覧作成、権利元一覧作成、疲れたね。DVD作成がなくてよかったね。

仮面

「欧米人」はマスク姿を気持ち悪く感じるという。アニメーションでもキャラクターのリップシンクが取れていないと違和感があると。話している時の口の動きを見せること、もちろん目線を向けることも、コミュニケーションに欠かせないと。

花粉症の時期なのでわたしは用心のためマスクを愛用しているけれど、いっそ仮面をつけて歩いても大丈夫な日本になるかもしれないと思った。そうしたテーマの映画や小説もありうる。

それと美形ではない女子が主人公の作品も。

散歩した ブリ食べた

相棒と散歩して、庭自慢の寺の花見。桜開花だが、つぼみの方が多い。ブリ食べて散財した、それなりの一日だった。腹痛い。インスタに写真アップした。新聞で大阪維新のクロス?選挙の対論を読む。イチロー引退。スケート世界選手権男子ショートプログラム、羽生選手、宇野選手、ネイサンチェン選手らを見る。それと番組の試写、台本チェック。

生産性について

今日はちょいとお腹の調子が悪い。腸も。

「つるつるしたもの」が、融通無碍だった部分を覆ったり、入り込んできたり。何かイメージがしやすいけれど、そんな抽象的な捉え方ではよろしくないだろう。イメージがしやすい気がしているだけだ。

池内氏が、批判的な人物に対して、1冊でも自分の意見を論じ通してみよ、と指摘していた。それによって得られたり、乗り越えた経験が必要だと。与えられたテーマで限定的な事柄を論じたり、誰かの意見をまとめたり、批判したりするだけでなく、と。とても教育的な意見だ。

色々と散漫な事柄が意識の中に浮かび上がってくる。消えそうにもなる。例えば、

・今までにない新しいサービスや仕組みやモノを生みだして、事業化しようとすることについて(←過去の自分は、芸術作品を生むこと、に限定的にこだわっていた)

・上の「事業」が、「つるつるしたもの」を生むことに関わっていることについて(←融通無碍、であることを過大評価する自分がいて、「事業」に関心が向いていかない)

・上の事柄は、自分が主体的ではなく、人任せだから、

・自分は子供のころ、放任と無関心、の中に置かれていた、という仮説。何かをすればバカにされる、おちょくられる、という“パワハラ”の世界の中で

植民地主義的な状況を“パワハラ”と読み替えるとどうなるのか。また、その逆も。

・事業家と事務方と。事業家による若者の搾取について。雑務を若手にさせることで、人件費を安くあげる、という植民地主義的なやり方なのか。それが、生産性の低さの原因なのか。

・生産性の低さは、パワハラによって、あるいは雑務の累積によって、人のやる気をそいでいるからなのか。

・雑務とはなんであるか、どうすれば効率化できるのか。それをどうやって広く行き渡らせるのか。

・若者が横並びでグループ写真を撮って、「仲間」でビジネスやっています、というイメージが流行っているようだが、なぜそこに一人でも世代が違う人がいないのか。

これはいい

スマホのアプリでブログの下書き機能を使ってみる。これはいい。思いついたことをメモして、更新中。

「未来型の人、過去型の人」っているんじゃないのか。よい知識を共有するためにブログを書いているという人あり。VRだの中国でのアニメ作りだの、わたしにも新しさは分かるがそのほかの価値が分からんものに価値を認めて商品化しようとしている人たちがいる。それって未来型の人?という思いつき。

まだ皆に価値が認められていない、けれど、自分はそれを見つけて、形にして世に出して、社会を変えようという人たち。その人たち自身、まだその価値によって充足しておらず、可能性の段階で、充足を先取りしているような。そうした意味で未来を先取りしている、「だけ」のような気がしてならない。VRや中国アニメについては、生活に必要なさそうだし、世の中に新しいものを出回らせようということ自体が目的のようにわたしには思える。それらが導入された結果、商品が生まれ、産業が生まれ、その価値を認める人には価値が生まれ、認めない人には無駄なものが増える。社会が変わってもその影響について、どこまでも責任を負うわけではない。近視眼的な未来、というべきか。

段階がごちゃごちゃだが。ともあれ、過去型の人は、解釈や考え方を変えて、新しくする、という仮説。

 

今日は、駅に貼られたポスターに、若い日本人の女子の顔が並んでいるのを見て、ありきたりな感想だが、能面のようだな、と思った。(能面、というのは本当は語弊がある。よくできた能面は異界の入り口を示しているかのようで、人間業で作られたものでありながら、陰影に富んだ、色んな味わいのある表情が湛えられているからだ。)

何かの番組の出演者たちらしいが、顔立ちが判で押したようなのだ。

ポスター上の若者の顔については、うちの会社にも似たような顔があるな、と思うところまでが、わたしの想像力の限界か。つまり、読み取り能力の問題もあるだろう。年を取ってパターンでしかモノが認識できなくなっている可能性もある。しかし、例えば今まで一度もテレビを見たことがないような辺境の地に暮らしている子どもたちがとても表情豊かだ、という話は普通にある。わたし自身が加齢と情報過多のせいで若者の表情をパターンとしてしか認識できていないだけでなく、写っている若者自体が外界の情報をそうしたものとしてしか捉えられていない可能性もあるだろう。そして、会社にいる若者と同じようだ、ということ。わざわざ笑顔やほかの表情を出させずに顔を並べているのは、どうしてだったのか。しわを寄せれば、わたしの世代にも似てくるのだろうか。

もうひとつ、今日はジムに行ったが、身につける気のないダンスや運動をするよりは、空手など追求型の習い事をして段階を追って技能を身につけたほうが効率が良いかも、と感じた。実際、やりはしないのだが。

ともかく、詰んでいる。仮面のような顔の未来型の若者には、異界への入り口がなさすぎる。

書こうとして消えてる

小論文をいっちょやってみようかと思った。大学は理系の学部に入ったので、受験勉強では数学、物理、化学に力を入れて、現代文や小論文はまともに勉強しなかった。評論文の読解は英語だけしかやっていないようなものだ。ハクスリーとか?、ジョージ・オーウェルとか。サッカーの国際試合(ワールドカップ?)が国家や民族間の代理戦争を果たし、それどころか憎悪をあおっている、といった話は英語の長文読解で学んだことだったように思う。ってなことを思い、ああ、法学部とか経済学部とかのやつらは、現代文や小論文で、近代批判、なんてのも思想として一応押さえていたんだろうな、わたしなんざ、前近代的、っていって、なんで近代以前のものが批判されるのか、進歩主義というのがなぜ正しいとされているのか、と分からないまま悶々としていたが、小論文の問題なんかを解こうとすれば、押さえておかないといけないテーマに過ぎなかったとは、恐れ入った。わたくしの何たる無知よ、と。自分の関心や能力を顧みず、理系や芸術系を選んで、随分寄り道したやんけ、と。

まあ、今日はそんな愚痴を書いてもいいんじゃないかと思ったが、書こうとするとするすると消えていく。書いても何の利益にもならん、かといって、ちゃんと分析的に書ければ、それはそれとして、小説なんかに出てきてもいいような話にもなるんじゃないかとケチな考えもあって、なんやかんやで進んで書きたいわけではない、「ための」文章でしかないので、まあ、レベルの低いものにしかならない。しかし、つながりをつけていくのが、ここ3日の課題なので、今日もつなげてみた。

ともあれ、小論文を昨日やってみようと思って、やりはじめて思ったことは、主語と述語、てにをはがバラバラ、文章が解体しそうにならないように、言いたいことを捉えて、文章にするように努力をしようということだ。文章を書いた後から推敲するのでなく、構成を考えていから、一気に書けるようにする、ということが大事。どんなテーマでも強引に綴る。続けて、つながりをつけること、を続ける。ということで、書いてみようと思ったことは、つまらん内容だとしても、一旦書いてみる。書こうと思ったテーマがなぜか消えてしまった、というようなときでも、自分で隠しているだけ、ということもある。サボらずに書く。

現代文や小論文を学ばなかったために、損してたかも話以外で、今日考えたこと。

まず、昨日、内田裕也さんが亡くなったというニュースを見たが、妻の樹木希林が亡くなったのは、昨年の9月だということにショックを受けた。もっと最近、1月頃だったような、あるいは少なくとも11月頃のような気がしている。時が経つのが早すぎる。忙しすぎて、わたしの時間はどこかで狂ってしまったのだ。

某おばさんプロデューサーが、自分はフリーランスだが、社員や契約社員の休みは働き方改革のためにカウントしなければならなくなり、損をしている、と拗ね、労務管理者にたしなめられると、「昔はセクハラも、パワハラも当たり前だった」と言いだして、あきれてしまった。その話が、昔はけしからん、とつながっていけばいいが、今の若い子は甘い、みたいな、空気を出していた。暴力・性暴力肯定派なの、アンタ? ハア?と聞き返したくなったが、「いやいや、セクハラ、パワハラをそのままでいい、なんてことを言ったら、下の世代から突き上げられますよ。世代間の考え方のギャップが埋まらず、間の世代のわたしたちが板挟みで、とばっちり受けますよ」と言って、「わたしたち」に入れておいてあげたが、アンタは立派なパワハラ上司ですよ。まあ、今日のトピックはそんなとこ。

あと、「THIS IS  IT」を再見。前と印象違う。