書こうとして消えてる

小論文をいっちょやってみようかと思った。大学は理系の学部に入ったので、受験勉強では数学、物理、化学に力を入れて、現代文や小論文はまともに勉強しなかった。評論文の読解は英語だけしかやっていないようなものだ。ハクスリーとか?、ジョージ・オーウェルとか。サッカーの国際試合(ワールドカップ?)が国家や民族間の代理戦争を果たし、それどころか憎悪をあおっている、といった話は英語の長文読解で学んだことだったように思う。ってなことを思い、ああ、法学部とか経済学部とかのやつらは、現代文や小論文で、近代批判、なんてのも思想として一応押さえていたんだろうな、わたしなんざ、前近代的、っていって、なんで近代以前のものが批判されるのか、進歩主義というのがなぜ正しいとされているのか、と分からないまま悶々としていたが、小論文の問題なんかを解こうとすれば、押さえておかないといけないテーマに過ぎなかったとは、恐れ入った。わたくしの何たる無知よ、と。自分の関心や能力を顧みず、理系や芸術系を選んで、随分寄り道したやんけ、と。

まあ、今日はそんな愚痴を書いてもいいんじゃないかと思ったが、書こうとするとするすると消えていく。書いても何の利益にもならん、かといって、ちゃんと分析的に書ければ、それはそれとして、小説なんかに出てきてもいいような話にもなるんじゃないかとケチな考えもあって、なんやかんやで進んで書きたいわけではない、「ための」文章でしかないので、まあ、レベルの低いものにしかならない。しかし、つながりをつけていくのが、ここ3日の課題なので、今日もつなげてみた。

ともあれ、小論文を昨日やってみようと思って、やりはじめて思ったことは、主語と述語、てにをはがバラバラ、文章が解体しそうにならないように、言いたいことを捉えて、文章にするように努力をしようということだ。文章を書いた後から推敲するのでなく、構成を考えていから、一気に書けるようにする、ということが大事。どんなテーマでも強引に綴る。続けて、つながりをつけること、を続ける。ということで、書いてみようと思ったことは、つまらん内容だとしても、一旦書いてみる。書こうと思ったテーマがなぜか消えてしまった、というようなときでも、自分で隠しているだけ、ということもある。サボらずに書く。

現代文や小論文を学ばなかったために、損してたかも話以外で、今日考えたこと。

まず、昨日、内田裕也さんが亡くなったというニュースを見たが、妻の樹木希林が亡くなったのは、昨年の9月だということにショックを受けた。もっと最近、1月頃だったような、あるいは少なくとも11月頃のような気がしている。時が経つのが早すぎる。忙しすぎて、わたしの時間はどこかで狂ってしまったのだ。

某おばさんプロデューサーが、自分はフリーランスだが、社員や契約社員の休みは働き方改革のためにカウントしなければならなくなり、損をしている、と拗ね、労務管理者にたしなめられると、「昔はセクハラも、パワハラも当たり前だった」と言いだして、あきれてしまった。その話が、昔はけしからん、とつながっていけばいいが、今の若い子は甘い、みたいな、空気を出していた。暴力・性暴力肯定派なの、アンタ? ハア?と聞き返したくなったが、「いやいや、セクハラ、パワハラをそのままでいい、なんてことを言ったら、下の世代から突き上げられますよ。世代間の考え方のギャップが埋まらず、間の世代のわたしたちが板挟みで、とばっちり受けますよ」と言って、「わたしたち」に入れておいてあげたが、アンタは立派なパワハラ上司ですよ。まあ、今日のトピックはそんなとこ。

あと、「THIS IS  IT」を再見。前と印象違う。