つれづれ、というほども

つれづれというほどもない。問いを立てることが考えるために必要なのだとか。その問いすら立てようもないから、つれづれ、でいくかというほどなのだ。

先ほどは夜中というのにボロアパートのベランダで洗濯物を干していた。そこに上の階の男女が階段を昇っていく。そこで、とりあえずぼそぼそと、こんばんは、と交わす。東京の真ん中で電車の中でのように声を掛け合わなければ知り合いでない以上の意味が出てくるから東京の名も知らぬ同士はぼそぼそくらいは声を出し目礼をするのだ。

そうした話もつれづれでしかわたしには書けない。洗濯物を干しながら、少しずつがいいのだと思い直したこととも、こうしたつれづれだから綴るところにまで持ってこれた。そうでなければ思いつきとして流れ去るだけだ。思いつきをつなげていく中で、なんとか次の話題の糸口や思いつかなかった問いへの橋渡しができるかもしれない。ともあれ、言葉が言葉を呼ぶようにつぶやき続けることでしか、何もせずにとどまることを防ぎようがないのだ。

 

とりとめのないつぶやきを公開で垂れ流すこともまあ居酒屋で人と話すレベルのことだから大して問題でもないだろう。

最近通信制大学への進学を決めた。わたし宛に郵便が届く段階でちょっとうれしい。世の中でわたしに関心が寄せられる経験は少ないので(そりゃそうだ、みんな自分自分で忙しい)、というほどでもないが、まあ郵便が来るのはうれしい。それで教科書が届いたので読み始めている。政治思想史だ。日本史や世界史は受験科目として勉強していないせいもあって弱い分野だ。読み物としては読めるが、巻末についている学習課題は小論文になっていて、書かれている内容を自分のものにするのは随分難しそうだと思う。隣人にどうやってこうした思想史なんかを身につけるのかと聞いてみたら、自分は既に高校時代に問題意識があってそこに出てくる思想家の本も読んだから、などという。若くて頭が柔らかいうちに勉強すると、などと言い始める。いやいや、わたしは過去の話なんか聞いていない。ともあれ、冒頭に戻るが、問いを立てながら、つまり、どうしてそうなんだ、いつからそんなことが言われているんだ、ということを考えながら読めよ、ということのようだ。それを若いうちからやっておけばいい、とかいう話は言わずもがなだ。

昨日取り上げた「M」は、最近チャネリングというものをしているという。瞑想のようなものだろうか。彼女は高校時代にベストセラーの「〇の壁」を読んで泣いたというから、今日図書館で借りてみた。わたしはその著者の別の本「〇の発見」を読んでいたが、「〇の壁」はまだ読んでいないかった。人は自分の脳で理解できることに縛られるから、それが壁となって、結局分かり合えない、という話がタイトルのもとだが、この世にあるもので確かなものはなく、蓋然性の中にあるという話、わたしはわたし、というのは錯覚だ、という話が展開されていることがミソだ。そうした話を自力でできるようになることがわたしの脳筋トレ?だ。このブログはその実践の場だ。

それと、自分の作品作りは自分のために行っている、という作り手がいる一方で、自己表現は芸術ではない、という人もいて、自分の中で整理がついていないこともなんとかしたい。