生産性について

今日はちょいとお腹の調子が悪い。腸も。

「つるつるしたもの」が、融通無碍だった部分を覆ったり、入り込んできたり。何かイメージがしやすいけれど、そんな抽象的な捉え方ではよろしくないだろう。イメージがしやすい気がしているだけだ。

池内氏が、批判的な人物に対して、1冊でも自分の意見を論じ通してみよ、と指摘していた。それによって得られたり、乗り越えた経験が必要だと。与えられたテーマで限定的な事柄を論じたり、誰かの意見をまとめたり、批判したりするだけでなく、と。とても教育的な意見だ。

色々と散漫な事柄が意識の中に浮かび上がってくる。消えそうにもなる。例えば、

・今までにない新しいサービスや仕組みやモノを生みだして、事業化しようとすることについて(←過去の自分は、芸術作品を生むこと、に限定的にこだわっていた)

・上の「事業」が、「つるつるしたもの」を生むことに関わっていることについて(←融通無碍、であることを過大評価する自分がいて、「事業」に関心が向いていかない)

・上の事柄は、自分が主体的ではなく、人任せだから、

・自分は子供のころ、放任と無関心、の中に置かれていた、という仮説。何かをすればバカにされる、おちょくられる、という“パワハラ”の世界の中で

植民地主義的な状況を“パワハラ”と読み替えるとどうなるのか。また、その逆も。

・事業家と事務方と。事業家による若者の搾取について。雑務を若手にさせることで、人件費を安くあげる、という植民地主義的なやり方なのか。それが、生産性の低さの原因なのか。

・生産性の低さは、パワハラによって、あるいは雑務の累積によって、人のやる気をそいでいるからなのか。

・雑務とはなんであるか、どうすれば効率化できるのか。それをどうやって広く行き渡らせるのか。

・若者が横並びでグループ写真を撮って、「仲間」でビジネスやっています、というイメージが流行っているようだが、なぜそこに一人でも世代が違う人がいないのか。