「融通無碍なもの」

「つるつるしたもの」を論じながら、加藤氏が対置しているものは「融通無碍なもの」であるのではないか。汀のように水と土の分け目であり、融通し合っている部分があるようなものだ。私がこの小論文で対置したいものも、そうした「融通無碍なもの」だ。

「つるつるしたもの」で水や汚穢を遮断するやり方は、それまでの日本文化になかったものでありながら、その後の日本のトイレ文化のビジネス的成功に思いを馳せれば、新しい日本文化の形の一つに進化していったものだ。その方向の可能性は今の経済社会の発達が証明している。

それでも「融通無碍なもの」の方向性の可能性がない、という結論にはならない。加藤氏が人付き合いの話で強調している通り、様々な事情を抱えた人々が同じ場所で生きられる社会こそが望ましく、また実際にそうした人々が、「つるつるしたもの」に覆われているもののひとたび液状化すれば崩れる危険がある土地に、呉越同舟という言葉のように、肩を接して暮らしているのだ。「つるつるしたもの」が時には打ち破られる。そのときに抜け道や緩衝地帯となる「融通無碍なもの」が壊されずに補完されれば。それが自然であり人間社会なのではないかと感じる。

 

社会において光が当たるところとそうでないところがあって、それらが織り合わせされる部分が陰翳をなすように、なくならないものであると考える。