これはいい

スマホのアプリでブログの下書き機能を使ってみる。これはいい。思いついたことをメモして、更新中。

「未来型の人、過去型の人」っているんじゃないのか。よい知識を共有するためにブログを書いているという人あり。VRだの中国でのアニメ作りだの、わたしにも新しさは分かるがそのほかの価値が分からんものに価値を認めて商品化しようとしている人たちがいる。それって未来型の人?という思いつき。

まだ皆に価値が認められていない、けれど、自分はそれを見つけて、形にして世に出して、社会を変えようという人たち。その人たち自身、まだその価値によって充足しておらず、可能性の段階で、充足を先取りしているような。そうした意味で未来を先取りしている、「だけ」のような気がしてならない。VRや中国アニメについては、生活に必要なさそうだし、世の中に新しいものを出回らせようということ自体が目的のようにわたしには思える。それらが導入された結果、商品が生まれ、産業が生まれ、その価値を認める人には価値が生まれ、認めない人には無駄なものが増える。社会が変わってもその影響について、どこまでも責任を負うわけではない。近視眼的な未来、というべきか。

段階がごちゃごちゃだが。ともあれ、過去型の人は、解釈や考え方を変えて、新しくする、という仮説。

 

今日は、駅に貼られたポスターに、若い日本人の女子の顔が並んでいるのを見て、ありきたりな感想だが、能面のようだな、と思った。(能面、というのは本当は語弊がある。よくできた能面は異界の入り口を示しているかのようで、人間業で作られたものでありながら、陰影に富んだ、色んな味わいのある表情が湛えられているからだ。)

何かの番組の出演者たちらしいが、顔立ちが判で押したようなのだ。

ポスター上の若者の顔については、うちの会社にも似たような顔があるな、と思うところまでが、わたしの想像力の限界か。つまり、読み取り能力の問題もあるだろう。年を取ってパターンでしかモノが認識できなくなっている可能性もある。しかし、例えば今まで一度もテレビを見たことがないような辺境の地に暮らしている子どもたちがとても表情豊かだ、という話は普通にある。わたし自身が加齢と情報過多のせいで若者の表情をパターンとしてしか認識できていないだけでなく、写っている若者自体が外界の情報をそうしたものとしてしか捉えられていない可能性もあるだろう。そして、会社にいる若者と同じようだ、ということ。わざわざ笑顔やほかの表情を出させずに顔を並べているのは、どうしてだったのか。しわを寄せれば、わたしの世代にも似てくるのだろうか。

もうひとつ、今日はジムに行ったが、身につける気のないダンスや運動をするよりは、空手など追求型の習い事をして段階を追って技能を身につけたほうが効率が良いかも、と感じた。実際、やりはしないのだが。

ともかく、詰んでいる。仮面のような顔の未来型の若者には、異界への入り口がなさすぎる。