「融通無碍なもの」
「つるつるしたもの」を論じながら、加藤氏が対置しているものは「融通無碍なもの」であるのではないか。汀のように水と土の分け目であり、融通し合っている部分があるようなものだ。私がこの小論文で対置したいものも、そうした「融通無碍なもの」だ。
「つるつるしたもの」で水や汚穢を遮断するやり方は、それまでの日本文化になかったものでありながら、その後の日本のトイレ文化のビジネス的成功に思いを馳せれば、新しい日本文化の形の一つに進化していったものだ。その方向の可能性は今の経済社会の発達が証明している。
それでも「融通無碍なもの」の方向性の可能性がない、という結論にはならない。加藤氏が人付き合いの話で強調している通り、様々な事情を抱えた人々が同じ場所で生きられる社会こそが望ましく、また実際にそうした人々が、「つるつるしたもの」に覆われているもののひとたび液状化すれば崩れる危険がある土地に、呉越同舟という言葉のように、肩を接して暮らしているのだ。「つるつるしたもの」が時には打ち破られる。そのときに抜け道や緩衝地帯となる「融通無碍なもの」が壊されずに補完されれば。それが自然であり人間社会なのではないかと感じる。
社会において光が当たるところとそうでないところがあって、それらが織り合わせされる部分が陰翳をなすように、なくならないものであると考える。
加藤典洋さんの「つるつるしたもの」
樋口裕一さんの小論文の本で読みました。多義的で読み取りが間違っているところがあるかもしれないが。
加藤さんは、1980年代後半にウォーターフロントという言葉が流行り出したことを捉えて、それまでの「水際」「汀」という言葉と比較。これまでにない「つるつるしたもの」を指し示していると論じている。
水と土の境界が入り混じる「汀」に対して、ウォーターフロントは、水と交わらずはね返す、薄いプラスチックのような表面、「つるつるしたもの」だ。
加藤さんは「つるつるしたもの」と対比されるものとして、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」で説かれている「厠」の美についても言及している。飛沫を跳ね返さず外気に逃がす「厠」の構造。しかし「水洗トイレ」が導入されて行き、従来の厠の美は、別のものに置き換わって行く。
外気に接していた厠の話や、先ほどの「汀」という言葉から、自然の中には融通無碍な出入り口があることに気づく。そうした出入り口のようなものが塞がれて、つるつるの殻のようなもので自分と他を分ける、ということが始まった、のだろう。
加藤さんは、ウォーターフロントで説き起こした話を、人の社会の話につなげて行く。様々な事情を持つ人々が接しながら、お互いの事情を察して、あえて踏み込まない関係で付き合う仕方。それが、「つるつるしたもの」の対極だ。「つるつるしたもの」で隔てられていれば、同じ場を共有できはしない。事情がかち合う人同士はだから背を向け合う。背中は、敢えて何も描かれていないが、それだからこそ時に雄弁に語るもの。
論題は、「つるつるしたもの」に対置されることを設定して、論ぜよ、というもの。
再生伝承文化
クラシックは、再生伝承文化、とMAROさんが語っている。
つれづれ、というほども
つれづれというほどもない。問いを立てることが考えるために必要なのだとか。その問いすら立てようもないから、つれづれ、でいくかというほどなのだ。
先ほどは夜中というのにボロアパートのベランダで洗濯物を干していた。そこに上の階の男女が階段を昇っていく。そこで、とりあえずぼそぼそと、こんばんは、と交わす。東京の真ん中で電車の中でのように声を掛け合わなければ知り合いでない以上の意味が出てくるから東京の名も知らぬ同士はぼそぼそくらいは声を出し目礼をするのだ。
そうした話もつれづれでしかわたしには書けない。洗濯物を干しながら、少しずつがいいのだと思い直したこととも、こうしたつれづれだから綴るところにまで持ってこれた。そうでなければ思いつきとして流れ去るだけだ。思いつきをつなげていく中で、なんとか次の話題の糸口や思いつかなかった問いへの橋渡しができるかもしれない。ともあれ、言葉が言葉を呼ぶようにつぶやき続けることでしか、何もせずにとどまることを防ぎようがないのだ。
とりとめのないつぶやきを公開で垂れ流すこともまあ居酒屋で人と話すレベルのことだから大して問題でもないだろう。
最近通信制大学への進学を決めた。わたし宛に郵便が届く段階でちょっとうれしい。世の中でわたしに関心が寄せられる経験は少ないので(そりゃそうだ、みんな自分自分で忙しい)、というほどでもないが、まあ郵便が来るのはうれしい。それで教科書が届いたので読み始めている。政治思想史だ。日本史や世界史は受験科目として勉強していないせいもあって弱い分野だ。読み物としては読めるが、巻末についている学習課題は小論文になっていて、書かれている内容を自分のものにするのは随分難しそうだと思う。隣人にどうやってこうした思想史なんかを身につけるのかと聞いてみたら、自分は既に高校時代に問題意識があってそこに出てくる思想家の本も読んだから、などという。若くて頭が柔らかいうちに勉強すると、などと言い始める。いやいや、わたしは過去の話なんか聞いていない。ともあれ、冒頭に戻るが、問いを立てながら、つまり、どうしてそうなんだ、いつからそんなことが言われているんだ、ということを考えながら読めよ、ということのようだ。それを若いうちからやっておけばいい、とかいう話は言わずもがなだ。
昨日取り上げた「M」は、最近チャネリングというものをしているという。瞑想のようなものだろうか。彼女は高校時代にベストセラーの「〇の壁」を読んで泣いたというから、今日図書館で借りてみた。わたしはその著者の別の本「〇の発見」を読んでいたが、「〇の壁」はまだ読んでいないかった。人は自分の脳で理解できることに縛られるから、それが壁となって、結局分かり合えない、という話がタイトルのもとだが、この世にあるもので確かなものはなく、蓋然性の中にあるという話、わたしはわたし、というのは錯覚だ、という話が展開されていることがミソだ。そうした話を自力でできるようになることがわたしの脳筋トレ?だ。このブログはその実践の場だ。
それと、自分の作品作りは自分のために行っている、という作り手がいる一方で、自己表現は芸術ではない、という人もいて、自分の中で整理がついていないこともなんとかしたい。
うーん
仕事上のある部分がひと段落し。パワハラを受けて、かなりウツ状態に陥ったところからようやく這い出し、まとめに入るところで、ちゃうなあ、と思いはじめる。
女性同士のカップルの片割れの「S」が、相棒の「M」について書いていることを読んで、面白かったので、それも響いている。Sは他に代わる人がいないパートナーのMについて、よく考え観察し、誰の真似でもないことを書いていた。二人はある会社を立ち上げたが、2年あまりで廃業した。Mがその道の天才肌でみるみる軌道に乗ったが、人づきあいが苦手であるために破綻していったのだ。Mの天才とその裏の顔は、Sしか知らない。その文章を読むことは、のぞき見をするようなものだ。
彼女たちは、自分たちのやりたくないことはやめて、好きなことだけで生きていこうと決意し、いろいろやらかしていて、これからも何かをやらかしそうな予感がある。その決意に見合った個性的な二人だと思う。何かが強烈に道を外れている訳でもない。ただ、ちょっと自分たちの感覚からずれていたら、従い続けることができない。ビジネスの才はあるのにだ。
わたくしは、今回の仕事で、自分の感覚とは違うことに従え、と仕向けられて、かろうじて反逆せずに走り続けた。反吐を出すのを我慢し続けて、代わりにウツっぽくなってしまった。ある種のパワハラの形をそれと認識した。
つまり、大会社の某国営放送局のOBのプロデューサーが、業務委託先の制作プロダクションのスタッフに、みずからが局でディレクターとしてならしていた時代への郷愁と、今はいない同期やら後輩やら上司やらへの昔の嫉妬と怨念を吐き散らす。目の前の急を要する仕事の話をせずに、過去の話をネチネチと続ける。某局の仕事の経験がある人間を見つけると、タラタラタラタラ、昔話をはじめる。才能のある編集マンがどれだけ権勢を誇っていたか昔話をしながら、ディレクターに従属していた編集マンを籠絡し、ディレクターとカメラマンが撮影してきた映像に難癖をつけ、このカメラマンには才能がない、などとイチイチケチをつけ、現在の目の前の仕事を批評し、邪魔をしていく。編集マンがどれだけの権勢を誇り、ディレクターの取材してきた映像をゴミのように批評してきたか、それをよい時代だったとか、何を言ってやがるんだ。そんな話でお前がわたしたちの仕事を邪魔していることで、どれだけの損失があるのか、お前は知るべきだ。吐いて捨てるほど働き手がいて、既得権益で濡れ手に粟で金儲けができた時代はとうに過ぎている。国や国民から流れてきた金でわたしたちもお前も雇われているけれど、お前がその金を生んだわけではない。その少ない金で人手不足の中わたしたちが働いているというのに、お前は過去の毒を吐き散らして、効率を下げているのだ。
まさに日本の老害だ。こういった輩を律することができなければ、生産性なんて上がりようがない。